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『メガネっコ』三つの罪

最初は「おっ」と思った。
すぐに失望した。
そして目の前が暗くなるほどの怒りを感じた。

我々埼玉県民704万人がことごとくメガネをかけた少女を愛するのには理由がある。

眼鏡とはただの視力補正具ではない。

彼女が幼少期に勉強をしすぎて。
あるいは読書に耽りすぎて。あるいは手芸に凝りすぎて。テレビを見すぎて。
ゲームをやりすぎて。PCにはまりすぎて。

なにかしらの理由で、あるいは先天的な理由から彼女達は金属とガラスでできた器具を顔に装着して生活している。

それは自然の中で生きる動物としては畸形である。自然な状態ではない。

しかし、それは美しい。
眼鏡というものは知恵と知識の結晶であり、衰えた自然の力を科学と技術でもって
克服しようとする文明の営為そのものだからだ。

そういった視力に困難を持つ先人たちの偉大な努力でもって、メガネッ子はそのイメージを保っているのだ。

曰く、知的だ。

曰く、マジメだ。


しかるに。
しかるにだ。
MEGANE01
時東あみというアイドルがいる。
ミスマガジン2005の一人に選ばれたグラビアアイドルである。

彼女には三つの罪がある。


第一に、度の入っていないメガネをかけているという罪

メガネは光を屈折させる道具である。
度が入っていないものはメガネではない。
このグラビアを掲載した者の罪とは、レンズに度さえ入っていれば素晴らしい写真になると言うのに、
せっかくの素材を不注意で台無しにしてしまっていると言う罪である。

カレーのルーをお湯で溶かしたものがカレーでないように、度の入っていないメガネはメガネではない。
玉葱の香ばしさと溶け出した肉汁とのハーモニーがカレーの真髄であり、レンズによって屈曲された
瞳の奥の光と影こそがメガネ美女の美しさであるからだ。
頬からこめかみに至る顔のラインが眼鏡のレンズによって歪まされる、そこに眼鏡美女の美しさ麗しさがあるわけだが、
まったく屈折ということをしない彼女の鼻の上にあるプラスチックの物体はそのまったく効果をもたない。

小学館は全国2億7千万の眼鏡ッ子愛好者に対して罪を償うべきだ。


第二に、視力が良いのにメガネをかけているという罪

そこにはプロダクション・出版社の
「お前ら、こういうのが好きなんだろ? メガネならなんでもいいんだろ?」
という倨傲で粗雑な横柄で尊大な驕慢で無礼で無知で軽率で浅薄な思い込みがそこにある。

「メガネかけてりゃオタクは喜ぶ」、だと?
 とんでもない。

 この子のプロダクションと小学館はわれわれがピカピカ光る金属ルアーに飛びつくブラックバスかなんかだとでも思っているのか?

 肉体的欠損を抱えながらもあるがままを受け入れ、文明の力を借りて努力する様は美しい。
 大人の男の含羞には洋酒の薫りがする、と言ったのはハードボイルド作家の故・稲見一良氏だが、
その言を借れば「眼鏡少女の含羞には書店で刷り上りたての書籍のインクの匂いを嗅いだときと同じときめきがある」。

 しかし、彼女はそれを踏みにじった。

 メガネの力を借りなければ生活できない全世界の12億人のメガネユーザーに対して彼女は謝罪すべきだ。
 彼女とそのプロダクションは全地球人類256億の眼鏡ッ子スキーに対し謝罪すべきだ。

MEGANE02

第三、これが最大の罪。視力が良いということを公言しそのメガネがギミックであるということを明言している罪だ。

プロレスは八百長である。

しかし、プロレスラーは全身全霊でその八百長に取り組み、幻想へと昇華させる。
たとえ虚構であろうとも全力でその幻想を演じ、観客はそれを虚構であると知りつつ
その幻想を受け入れその幻想に立脚しその幻想に酔いながら試合を観戦するのだ。

アイドルもそれと同じである。
偶像(idol)というその語源もさることながら、どんなにぽっちゃりしていてもウエストが59cmであったり、
たとえ彼氏がいたとしても「ファンのみんなが恋人です」だったりというファンタジィ、虚構、幻想の上に
アイドルというシステムは成立している。ファンタジィ、虚構、幻想の上にしかアイドルは存在し得ない。

アイドルは幻想を振りまき、ファンはそれを承知の上で幻想に酔い耽溺する。

その構造を全く無視して
視力は1.5なんですけど
気に入って
外せなくなっちゃった
だと?!

ふざけるな。

プロレスラーはプロレスを八百長だとは絶対に言わない。
自分たちのついたウソを信じ、ウソに乗ってきてくれるファンがいるからだ。

「手前等オタクどもが飛びつくから客寄せのエサのためにメガネをかけた」
そのこと自体はいいことにしよう。
百歩譲って許すとしてもだ。

だがそのことを公言するのはどうか。どうなのか。
たとえるのならば
「彼氏はいるんですけど、それ言っちゃうと人気が落ちるからいないことにしといてください」
そう言っているようなものだ。

そこにプロ根性はない。
自ら幻想空間を構築しファンの意識を地表から持ち上げようとする幻術使いの魂はそこにはない。

ロバート・デ・ニーロは役作りのために体重を増やし、髪の毛を抜いた。
田中絹代は老婆を演じるため前歯を抜いた。
ユル・ブリンナーは頭を剃り上げた。
フィルムや映像を通して見る者を魅了しようとする幻術師たちはそこまでする。
そこまでするからこそ、我々視聴者はその幻術に惑わされ彼らの紡ぐフィクションをあたかも現実であるかのように
受け入れてしまうのだ。

時東あみ。彼女がメガネッ子アイドルを自称するのであれば暗い部屋で小さな文字の本を読破し、
走る車の中で携帯ゲーム機にのめりこみ視力を0.2まで落とすという努力が必要だ。
明るさを一番暗くした液晶モニターで一晩中チャットをし、エンサイクロペディア・ブリタニカを暗い部屋で
筆写しつくすという努力が必須だ。

それを一切せずに眼鏡という人類の叡智の精華のみをただ乗りし喰い散らかすごとき所業は
全宇宙8京人のめがねッ子ファンの一員として到底許すわけにはいかない。

メガネは都合のいいオタク寄せアイテムではない。
それは地球人類文明の叡智の結晶であり、科学と理性と合理主義の野蛮と迷信と非合理に対する
偉大な勝利の記念碑なのだ。
それに触れるのには資格が要る。
それを使う権利を得るにはただ一つだけ、条件があるのだ。

「視力が低い」

そのチケットの名前はそう呼ばれている。

私はここに、声を大にして叫ぼうと思う。
「メガネをなめるな」
と。

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